カテゴリ
以前の記事
2013年 09月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 お気に入りブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
一昨日は終電がなくなるまで飲んでしまった。久しぶりにタクシーで家まで戻ったが、タクシーの運ちゃんと交渉の結果普段より2割は安くなったはず。この辺りはさすが大阪。今頃悔しがってるんじゃないだろうかw (あるいは僕と同じことを思ってる可能性もある)
このところ出張+会食続きでジムに行く頻度は週4回→2回に落ちるは、20日くらいは走ってないはで、またしても身体が重く感じるようになってきた。太っていく時の恐怖は言葉にしがたいが、腹のあたりから身体が腐っていく感じだろうか。とにかく土曜日は朝からジムに行き、夜に5㌔のラン、日曜日はいつもの通り朝一でジム→テニスクラブと、久しぶりに腰のあたりに負荷を感じる程度の運動はできた。 日曜の午後には「風立ちぬ」を劇場に見に行き、何とも言えぬ感動を味わったが、言葉にするにはもう少し時間(場合によってはもう一度見たいかも)が必要な気がする。単なる反戦モノでないことは明らかだが、純粋な技術者モノでもない気はする。息子と見るのがためらわれるくらいの恋愛ものでもあることが理由なのだろうか。 今週はとても素晴らしい本と出合ったのだが、それはまた別の機会に。素面でないととてもじゃないが評することなんてできない。とにかく僕の琴線に触れまくる本であったことは間違いない。今は同じ著者の別の本を読んでいるところ。もともとジャンルじゃなくて著者で読む本を選ぶ(村上龍、橘玲、酒井穣、慎泰俊、金子智朗とか。敬称略)傾向があるので、この著者の本は全て読みたい。 来週はせめて1日は晴れてほしい。2週間前に購入したブランキーニをまだおろせていない。ベルトも調整から上がってきたことだし、今週こそは履きたいなぁ。てな感じの週末でした。 ではまた。 #
by EM-LYON
| 2013-09-08 22:58
| 日常
マイケル・ルイス著の「マネー・ボール」は非常に興味深い一冊だ。この本がどの様な本であるかは、461ページの1文(丸谷才一氏による解説)に凝縮されている。
「マーク・ガーソンといふ銀行家はこの本を評して、『単にマイケル・ルイスのベスト・ブックであるだけではなく、これまでに書かれた最上のビジネス・ブック』と言つたさうだが、これは決して褒めすぎではない」 「マネー・ボール」は小説風に書かれたノンフィクションだ。読んでて面白いし、読んでて面白いとは小説において最も重要な要素である この本で最も重要なのはメジャーリーグの1球団アスレチックスのGMビリー・ビーンの視点だ。ビリーが野球界に取り入れたのは株式市場では一般的なこと。すなわち「本来価値よりも安く放置されているモノを買う」「本来価値よりも高く評価されているモノを売る」「確率統計的に正しい投資をする(株式市場ならインデックスファンドに投資する)」ということ。ビリーが最も重視したのは、打率でも盗塁率でもなく出塁率。また野球で最も大事な数字は3。すなわちアウトカウント。盗塁はアウトになる可能性が高いのでしない。送りバントなんてとんでもない。アウトカウント3つまでに得点をとることが大事なんだ。 ビリーの考えは多くのメジャーリーグ球団には受け入れられなかった。なぜ? ルイスは言う。「野球界はビジネスじゃない。クラブなんだ」 お互い持ちつ持たれつ。どこかの球団を首になっても別の球団が雇ってくれる。だってかつてはメジャーリーガーだったんだし。これ何かに似ていないだろうか? 既得権益層が目指すものはわかりやすい。現状維持。だって今のままの方が自分にとって都合がいいんだもん。野球界にビジネスの視点を取り入れる? 勘弁してくれ。そんなことしたら俺の仕事がなくなるじゃないか。都市経営? 冗談だろ。都市は経営するんじゃなくて運営するんだよ。あと数年で逃げ切れる俺たちがね。 都市経営に関して重要な要素は学問的にある程度明らかになっている。都市経済学者のリチャード・フロリダが明らかにしている通りだ。優秀な人材を引きつける魅力ある都市になること。そのために重要なのは多様性、多様性、多様性。 言葉だけじゃダメだ。大阪を再生させるためには言葉の正しい意味において多様性を追求する必要がある。大阪に英語(別に中国語でもいいけど、現在世界で最も使われている言語が英語だから)だけで授業する大学を作ろう(高校でもいい)。大阪に中華街やインド人街やアラブ街を作ろう。大阪をアジアのトロントにしよう。 「マネー・ボール」のあとがきに面白い一文がある。トロント・ブルージェイズがアスレチックスと同じ経営方針を採用した際に、ブルージェイズのメンバーに占める白人の割合が増えたことについて。 「さまざまな文化の溶け合うこのトロントという大都市なのに、トロントの球団はリーグの中でも一番白人が多くなっている。なぜか?」 大阪が東京に打ち勝ち世界的に重要な都市となるためにはトロントと同程度に多様性を要求する都市になる必要がある。 #
by EM-LYON
| 2011-12-04 00:24
| ちょっと思ったこと
前の職場にいた時に、会社に対する不満ばかりを主張する部下がいた。彼に対し私は、「会社に限らないけど、組織や社会に対して不満がある場合取りうる選択肢は3つしかない」と発言した。その3つとは「(我慢して)留まるか、自らの力で(組織や社会を)変えるか、離脱するか」。
これは今でも間違っているとは思わないが、リチャード・フロリダの「クリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求める」の中に興味深いメッセージがある。本著の中でフロリダは政治経済学者アルバート・O・ハーシュマンの『離脱・発言・忠誠 - 企業・組織・国家における衰退の反応』の中から以下の考え方を紹介している。 「(ハーシュマンは)私たちは満足のいかない状況に直面すると、不満であることを「発言」するか、または「離脱」するかのどちらかを行うと主張している。「忠誠」の思いが強ければ強いほど、私たちは前者の行動を取る傾向がある」 私はかつての部下に愚痴を言う(不満であることを発言)のではなく、「我慢するか」「変えるか」「離脱するか」の中から選択すべきと主張した。一方ハーシュマンは「不満であることを発言するか」「離脱するか」のどちらかを行うのだとしている。これは、「不満であることを発言する」には2つの場合があるということだ。 一つ目は現状に不満はあるが変えることも離脱することもできないと考え、置かれた状況に我慢しつつ不満であることを発言する場合。これはいわゆる「愚痴」で、居酒屋などで上司や会社の愚痴をいうサラリーマン像というステレオタイプな例をイメージするとしっくりくる。「愚痴」には実害はなく(本当はあるんだけど)、万が一上司が部下の愚痴を耳にしても、苦笑いですますことができる場合が多いだろう。ただし、この「発言」には、イメージするだけでもあまり幸福感を感じさせる印象はない。 二つ目は現状を変えようとして「不満であることを発言」する場合だ。この場合の「発言」は居酒屋での愚痴とは違い、組織や社会が現状維持を目的としている場合「害」になる可能性がある。現状維持を目的とする者にとって、現状を変更しようとする「発言」は脅威となり、「追放」へのインセンティブが働く。つまり現状を変えようとする「発言」は結果として「離脱」のリスクをはらんだものとなっているのだ。変えようとする試みが失敗に終わった場合に「離脱」を余儀なくされる可能性がありつつ、現状を変えようとして「不満であることを発言」する理由として、その組織や社会への「忠誠」が根底にあるというハーシュマンの考えはわかりやすい。「忠誠」がなければ、「不満であることを発言」せずに「離脱」すれば良いだけだからである。また、「離脱」のリスクを負いたくない場合(「離脱」すれば生きていけないと考えた場合とか)は、愚痴に止めておくのが最良の選択となる。フロリダは、人が感じる「幸福度」と住む場所の相関関係に着目し、ある場所から移動すべきかどうかに関して以下のように発言している。 「私たちが本来の能力を発揮して幸福を見出すには、場所の重要性を認識し、選択肢を正しく比較検討して、必要とあれば移動する覚悟を持つべきだ」 #
by EM-LYON
| 2011-11-26 11:25
| ちょっと思ったこと
書こうと思いつつなかなか書けなかった感想文。慎泰俊さんの新著「働きながら、社会を変える。――ビジネスパーソン「子どもの貧困」に挑む」は心に重く響く一冊だ。読んだ後に「感想は?」と聞かれたとしても容易に答えることができない。この本で語られているのは、慎さんがNPO法人Living in Peaceで取り組んでいる「子供の貧困問題」の現実と、社会人として本業を持ちながらパートタイムでNPOに取り組む意義である。
子供の貧困問題は、子供には選択肢が少ない(まったくない場合も多い)ことから非常に深刻だ。もちろん子供は親の所有物ではないが、「親の事情」の影響を100%受ける立場でもある。自分自身の経験からも言えることだが、子供は親の決定を受け入れる以外に選択肢はない。 「子どもは親を選ぶことはできない。でも、どんな親の下に生まれ落ちたとしても、社会はその子どもに自由に自分の人生を形作る機会を提供できるはずだ」 慎さんの主張は明確だ。子供は親を選べず、親の事情に従うしかない。その結果に奪われるのは「機会の平等」である。ならば社会が「機会の平等」を提供するべきだし、できるはずだというものだ。社会的セーフネットは、このように「機会」そのものを奪われる立場にあるものに対して強く働くようにすべきだと思う。 (一方で原理的市場主義者(リバタリアン)の立場では、「児童労働」を肯定することで「機会」を提供でき、この種の問題は解決するとする。私はリバタリアン的立場は嫌いではなく、「自発的な児童労働契約」が有効であるという主張も間違っているとは思わないが、日本のような成熟した社会では「教育の機会」を奪われた子供の未来は非常に厳しいのが現実だ。今の日本では教育の機会を奪われた人たちの仕事は極めて限定的で、仕事そのものが存在しない場合もある。日本の閉鎖的システムも問題点の一つではある。なお、上記リバタリアンの主張に関してはウォルター・ブロック(橘玲訳)の「不道徳教育」に詳しい) また慎さんは本著の中で「貧困の連鎖」「虐待の連鎖」についても触れている。特に「貧困の連鎖」については身近に感じることができる。現在生活保護を受けている人たちは、本人も十分な教育を受けていないことが多く、子供の教育の機会の喪失の持つ意味を正しく理解できない場合がある。すなわち教育の機会を提供して将来価値を極大化するのではなく、今の収入を増やそうとする意識が働くため、高等教育を受けるよりも早い段階で働き始めることを奨励する可能性がある。こうした子供達はアルバイトや非正規社員としての仕事に就くことしかできず、経済的に苦しい生活を強いられることになる。慎さんの言う「ホームレスのなかには児童養護施設の出身者が多いという」事実には胸が締め付けられる。親の事情で「機会の平等」を奪われた子供達は大人になっても「機会」は与えられないのかと。 また児童養護施設にいる子供達だけでなく、親とともに生活する子供達の中にもかなりの数虐待を受けている子供達がいると予想される。ある保育園関係者から「虐待を受けている可能性を感じる子供がいるが、現段階では何もできない」という悲痛な声を聞いたこともある。子供の頃虐待を受けていた人から「子供とどう接していいのかわからない」という相談を受けたこともあるそうだ。慎さんによると「虐待が連鎖する確率は三割から五割」と言われているとのこと。 私の住む大阪府は、生活保護世帯数、失業率など負の数字が全国ワーストレベルである。ホームレスや貧困世帯、生活保護世帯はいつも自分の身近に存在した。個人的な印象でしかないが、他の都市と比較すると重苦しい空気すら感じることがある。 一人の親としては子供に「機会」を与え続けること、一人の社会人としては世界に向けて行動を起こすことが大切だと考えさせられた本だ。 最後に、本著の中で慎さんが仰っている「本業を大切にしよう」という主張はとても重要だと思う。慎さんは激務で知られる外資系金融機関で働きながらNPO活動をしている。Living in Peaceでは「本業をしっかりできていない人の参加は基本的に許容していない」そうだ。 「本業でしかるべき成果をあげてから他人のための活動を始めるべき」 他人のための活動が自己実現目的にならないために、この意識は重要だと思う。 #
by EM-LYON
| 2011-11-23 21:26
| お勧め本
野口悠紀雄教授の「1940年体制(増補版) ―さらば戦時経済」によると現在の日本を形成する経済システムは1940年前後に形成された、総力戦遂行を目的とする「戦時総力戦体制の継続」がベースになっているという。例えば、官僚主導による中央集権体制や、間接金融や終身雇用、年功序列、企業別労働組合などの日本型企業システムなどは戦時総力戦体制を構築する中で発達してきたものである。(一般に知られているように、戦前の日本は直接金融中心の企業システムであり、雇用の流動性も高く、欧米型システムに近い)
これらのシステムが、世界史上類を見ない日本の高度経済成長に寄与したであろうことは事実だと思われるが、現在の経済環境の変化に対応できない原因となっているのも事実である。「体制維新――大阪都 (文春新書)」の中で堺屋太一さんが仰る、「人を替えても(政権交代)、仕方を変更(政策転換)しても良くならない。これを救う道はただ一つ、体制(システム)を変えること」とは、まさにこの「戦時総力戦体制」を変更する必要性に触れていると思う。(また堺屋さんは同著のなかで「太平洋戦争へと向かう1940年頃からは、大阪は急激に衰退」すると書いている。野口教授の1940年頃から現在の日本システムに連続するシステムが構築され始めた、という主張と並べると興味深い) 堺屋さんが明治維新の最も重要な部分として、「地方から先行例を創」ったことを挙げており、先日紹介したリチャード・フロリダも、活気ある都市が新しい経済と社会を生むと主張する。これらの主張から、大阪都構想を掲げる橋下徹元大阪府知事の主張は正しいと考えるのだが、今日は別の視点。 活気ある都市が魅力的な人材を引きつけるのは直感的にも理解できる。ただし次のような主張もあるだろう。 「誰もが流動的である訳ではない」 これもある面では事実だ。ある都市の魅力が落ちる(税金が上がる、犯罪率が上昇する、人口が減るなど)としても多くの人はその土地を離れて生きることは難しい。特に日本のように労働流動性が低い国では、住む場所を変えるのは高コストとなる。だから国政の仕事は、その国の魅力を上げることであり、地方政治家の仕事は都市の魅力を上げることとなる。しかしこれらが往々にして巧くいかないのも事実だ。(とはいえ、日本を魅力的な国にするのは政治家ではなく、魅力的な国(都市)を作る創造的個人にかかっているというフロリダの理論は正しいと思うし、魅力的だ。フロリダは「グレート・リセット―新しい経済と社会は大不況から生まれる」の中で、製造業やサービス業にもクリエイティブな個人は誕生しうると述べているし、また誕生しなければならないとしている) すなわち、国家に依存すること(会社も同じ)に大きなリスクが伴う時に個人として生きる戦略とは何だろうか? これもよく言われていることだが、どこにいても生きていくことができる人間になること、と定義できる。ここで言う「生きていく」とは哲学的な意味ではなく、経済的な意味である。作家の橘玲氏によれば(いや、よらなくても)、人は「収入とは、人的資本あるいは金融資本(あるいは両方)を市場に投資することで得られる対価」である。すなわちどこでも生きていくことができるというのは、①どこにいてもお金を稼ぐことができる人的資本を持っているか、②どこにいても生活できる程のリターンをもたらす金融資本をもっている必要がある。 私にとって②の選択肢は始めからあり得ない(少なくとも今は)。だとすると個人の戦略として①を採用せざるを得ないが、この人的資本とは何か?を定義することや、それをどのように高めていき、利用するのかは困難だ。酒井穣さんはブログ(これは「ゆらぎ」ではない。)の中で陳腐化するスキルよりも「きわめて誠実であること」が重要だと仰っているのが興味深いし、勝間和代さんは著書「まじめの罠 (光文社新書)」の中で南アジアやインド、アフリカのどこかで仕事することで人的資本を高めるチャンスがあると仰っていて面白い。 もはや若者ではない(橘玲氏によると収穫期)私にとって、人的資本を高める幅はかなり限定的だが、今の会社を利用しつつ(というと聞こえは悪いが、一生懸命働く、という意味)、チャンスをとらえていきたいと思う。短期的には海外で働く、中長期的には大学へ戻る(博士号を取得する)を目標にすえることとする。(ちなみにこれらは先日酒井さんと飲んだ時にもらったアドバイスがもとになっていたりする) #
by EM-LYON
| 2011-11-23 14:31
| ちょっと思ったこと
|
ファン申請 |
||